エクセルシア盛岡中央高校デジタルブック
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している光景をたまたまテレビで見ました。様々な銃犯罪がやまないにもかかわらず、人間社会というのは様々なしがらみがあって、なかなか改善されない。銃で言えばライフル協会という強力な団体があって、政治的な力もあるということです。今ある姿というものに対して、これはなんとかしなければならないという強い気持ちがみんなの心の中に湧いてきて、具体的にこうしようという、そういう運動が起こらなければならない、そのように私は思っております。■私の教育方針の原点 ところが日本において実際は、誰もが忙しく、もはや大学生の学生運動もほとんどありません。社会を変えようという運動が起こりにくいのです。そのため、理想の姿というものを描くことすら、なかなか難しい。現実に振り回されていますから、現実に合わせる。これが当たり前の人間の社会だということで、そこに合わせて一生懸命努力しているにすぎないのです。努力していき、人間が持つ不完全さをなるべく完全なところへ持っていこうという機運が社会全体にみなぎってこなければ、私たちが望む、活力のある、そして明るい社会を、本当に実現するのは難しいと思います。 沖縄尚学高校では、その原点を見つめて見失うことなく、一方では現実に対応する教育を行っています。例えば私立の学校にとっては非常に重要なのが進学実績、それと教育内容、人間力を育む教育、暖かみ、厳しさ、知性を身につけさせる教育、そして周りの人を安心させ、喜ばせる存在になる努力を怠らない教育を目指さなければなりません。旧制中学校を卒業した後、沖縄群島政府立名護英語学校促成科を昭和26年9月28日に卒業し、その3日後の10月1日に、父・故名城政雄を塾長として、那覇尚学塾を始めました。当時、昼間は琉球米国民政府法務部に軍事法廷通訳官として勤務していました。そして、夜は那覇尚学塾で教鞭をとり、また翻訳事務所も開設していました。大変な仕事でしたが、琉球米国民政府法務部には2年半務めました。その後、約20年間は、最低週4日間は、1日18時間働いていました。私が予備校で教えた生徒は3万人以上もなりますが、約400人が医者になっています。英語クラスになると、50年間で約5万人(3カ月コース。年4回卒業生を送り出す)にもなります。予備校といえども、人間をつくることを目指す教育をしなければいけないと思いました。そのため、尚学院の願いである「暖かみ」「厳しさ」「知性」、こういった言葉を横断幕にして、予備校の壁に大きくはり出していました。 私は、郷里は沖縄なのですが、母は愛知県出身だったのです。そして終戦の時、台湾におりましたから台南一中(旧制中学校)から岡崎の中学に転校し、愛知県におりました。ところが両親と妹は昭和21年に沖縄に帰ってしまい、私一人残ったのです。あちらこちら転々としながら旧制中学校を出たのです。そのような経験から言えることは、どんなことも怖れない、侮らない、気負わない。これがもうずっと昔から私の心の中にありました。今、私の学校で校訓として、「怖れず、侮らず、気負わず、やるべきことに取り組みます。」「暖かみ、厳しさ、知性を身につけ、感謝と奉仕の心を実践します。」この二つを掲げています。中学校と高校の全生徒約2,000人が、朝と夕方、言葉に出して斉唱しています。学校の教職員会議においても、始まるときに起立して、この言葉を斉唱してから始めるのです。こういう理念がにじみ出てくるような人間になってほしい。あの人を見れば暖かみが感じられる、厳しさを感じる、優しさを感じる、あの人は人を侮る人ではない、あの人は常にやるべきことをやっている、そういう人間になってほしいと思っているわけです。■私立高校の危機と生徒の使命 そして進学実績ですが、私が引き取った私立沖縄高校は、沖縄大学とともに学校法人嘉数学園が運営していました。私はその私立学校法人の評議員をしていたのです。沖縄県は戦後しばらく浪人生が多く、いくらでも生徒がおりました。30校ほど高校がある中で、私立沖縄高校は当初2,000名の生徒を抱えていました。ところが昭和54年から56年にかけて生徒数が急に減少していき、昭和57年にいたっては進学校として再出発すると公表したのですが、応募者がいなかったため、入学試験はとりやめになりました。そして、公立高校を不合格になった生徒の志願者も、100人にも満たない状況でした、生徒定員は当時550名でした。教職員の給与やボーナスも満足に払えず、校舎は危険建築物になっていました。教職員は当時60名おりましたが、高校側に同じ法人の大学から給与が支払われていました。そこで昭和57年12月、あわてて私の所に何回も担当理事が「名城先生、高校を引き取って下さい」と頼みに来ました。「1年間待ってくれませんか」と言いましたら、担当理事は「いや、3カ月後の昭和58年3月には廃校が決まります。もう、550名の定員で、見通しとしては、入学者は50名も来ません」と言い、そのことを聞いて引き受ける決意をしました。「それじゃあやりましょう」と。なぜ決意したかと言いますと、私立沖縄高校がつぶれたら、沖縄の私立高校は全滅するだろうと思ったからです。沖縄大学の理事長から「高校に出すお金はありません、先生の方で全部よろしくお願いします」と言われ、EXCELSIOR vol.18128

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